「腰を据える」 04.05.16
ルカ14:25〜35
神の御子イエス・キリストが、私たちを救うために十字架にかかり
血を流してくださいました。神さまに対して、隣人に対して、自分自身に
対しても、背き罪を抱えていた私たちの罪を取り除き、滅びから救い出す
ためにでした。私たちを、罪と死に身を置く者でなく、救いと永遠の命に
身を置く者に変えるためにでした。そのような救い主イエス・キリストに
従って生きようとすることは、私たちが当然なすべき反応です。
主は、従おうとする者に、何よりもご自分を愛するようにお求めになります。
大切な家族や自分自身以上に、主を愛するのが主に従う者だとおっしゃる
のです。これは、主イエスがご自分の満足のためにおっしゃるのでは
ありません。そこに、私たちの新しい歩みが生み出されていくからです。
人間同士の場合でも、私たちは愛する相手の心を重んじ、愛する相手が
大切にしているものならば、自分もそれを大切にしようとします。
主イエスを何よりも愛する者は、主イエスの心を重んじます。
そして、主のまなざしを通して、家族や自分を見る目が開かれます。
その時、自分の家族が、神さまから命を与えられた家族であり、主イエスが
救いと永遠の命を与えたいと願っておられる家族であることが、はっきり
してきます。そうして、私たちは、自分の気持ちを越えた家族との関係を
築きあげていくのです。
主の十字架は、人の救いのためのものでした。「自分の十字架」もそうです。
主に従う者は、他者の救いのために心を砕き、仕え、他者の救いのための
十字架を背負い始めます。
主は、主に従う生き方に不安を覚えるものに、一切を捨てるように
おっしゃいます。一切というのは、良いものも悪いものも両方です。
自信だけでなく不安も捨て去るのです。何も持たないで、ただ主に身を
委ねるようにして主に従うのです。
そこに「私の弟子だ」との主の声が響きます。
主は、弟子の歩みを支え、足りない所を補い、助けてくださいます。